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札幌の彫刻を知る Basic Knowlege|札幌の彫刻はいつ頃から どんな作家によってつくられたかを知ると 彫刻の見方が変わるかも

札幌の野外彫刻と彫刻家たち

札幌芸術の森美術館副館長 吉崎元章

ここでは、札幌に設置されている彫刻の歴史をたどるとともに、それらを多く制作した札幌にゆかりの深い彫刻家たちを中心に紹介します。

■戦前の野外彫刻

札幌での野外彫刻の歴史は明治期にまでさかのぼることができます。1903(明治36)年、大通西7丁目の黒田清隆像を最初に、中島公園に大迫尚敏将軍像(1907年)、大通西3丁目に永山武四郎将軍像(1909年)と次々に開拓長官や軍人の像がつくられました。当時の日本は、西欧化を急速に進めるなかで洋式彫刻の技法を取り入れて、靖国神社の大村益次郎像(1893年)や上野公園の西郷隆盛像(1898年)など、ブロンズによる偉人の肖像彫刻、いわゆる銅像が盛んに設置された時期でした。札幌も例にもれず昭和に入ってからも政治家や教育者、実業家などの銅像が多く建立されています。しかし、それら戦前までにつくられた彫刻の多くは現存しません。第二次世界大戦が激化するなか、武器となる金属として回収され、鋳直されて戦地に送られたのです。1943年の新聞には「撃敵へ銅胸像征く」という見出しを見ることができます。北海道大学にあるW・S・クラーク像は戦前の作品を知ることができる数少ないもののひとつです(1)。この胸像は1926年に田嶼碩朗がつくった最初の像が供出されたため、戦後まもない1948年に加藤顕清の監修によって忠実に復元されたものです(2)

■戦後の具象彫刻

日本における肖像ではない彫刻の野外設置は、1950年に本郷新が東京の上野駅前に据えた裸婦像≪汀のヴィーナス≫(3)がその最も早い例だと言われています。本郷は「モ二ュマンは、太陽の下、たくさんの人の視線を浴びながら永く耐えられる彫塑でありたい」と主張しながら全国各地に積極的に多くの彫刻を設置し、戦後日本の野外彫刻を牽引した彫刻家です。故郷の札幌にも、大通公園に立つ≪泉の像≫(1959年)を皮切りに札幌駅前の≪牧歌の像≫(1960年)などいくつもの作品を残しています。日本国内の最も優れた野外彫刻に贈られる本郷新賞が1983年に設立されたことも、彼が日本を代表するモニュメント作家であったことを物語っています。

また札幌出身の山内壮夫の作品も市内にたくさん見ることができます。市民会館前の≪希望≫(1958年)や中島公園の作品群などは、素材としてセメントが用いられ、ざらついた独特の肌合いをみせています。セメントによる彫刻は1950年から60年代にかけて日本中で盛んにつくられました。1951年から東京の日比谷公園でセメント会社の素材提供による野外彫刻展が始まったことがその大きな引き金になっており、山内もこの展覧会に何度か参加しています(4)。セメントはブロンズに比べはるかに安価であり、作家自身でも直接扱えたことなどから一時期急速に広まりましたが、心棒の鉄が錆びて浸みだしたり、風化や亀裂などが生じやすいという耐久面での問題があり、その後あまり用いられなくなりました。北海道大博覧会記念として中島公園につくられた山内壮夫の≪森の歌≫(1958年)はもともと白セメントの作品でしたが、1997年、札幌コンサートホールの建設に伴う移設の際に、ブロンズに鋳造され直されています。

本郷、山内をはじめ、札幌は多くの優れた彫刻家を輩出してきました。二人は、札幌第二中学(現・札幌西高)出身であり、その後輩には、札幌で少年時代過ごした佐藤忠良がいます。本郷は、山内と佐藤らとともに1939年に新制作派協会彫刻部を創立し、互いに刺激を与えながら戦後の具象彫刻に大きな成果をもたらしました。また、本郷と山内は、早い時期からまだ彫刻の土壌が育っていない札幌にたびたび訪れ、初期の北海道美術協会(道展)において指導的役割を果たしています。しかし、彼らはいずれも札幌と深く関わりながらも、活動の拠点は東京においていました。札幌で暮らし風土に根付いた制作を続けた最初の彫刻家は本田明二です。彼が札幌で活動を始めたのは、戦後シベリア抑留から復員した1948年のことです。彫刻需要の少ないことに加え、材料調達の困難、冬期間に粘土が凍ってしまうなど彫刻に不向きな気候も、札幌で活動する彫刻家の出現を遅らせた要因でしょう。彼は同じ札幌二中出身の本郷新や山内壮夫らの激励を受けながらこの地で制作を続け、素朴で野性味あふれる作品を生み出しました。坂坦道もまた、札幌において早くから活躍した彫刻家のひとりです。戦後の北海道美術協会(道展)の発展に努めるとともに、道内に多くの作品を残しています。札幌の観光地として人気の高い羊ケ丘展望台に立つ≪丘の上のクラーク像≫(1976年)は、札幌の彫刻と言って多くの人が真っ先に思い浮かべる作品のひとつでしょう。大通公園の石川啄木像(1962年)をはじめ、堅実な作風を見せながら、時には風をはらんだ衣服や大胆なポーズの人物による記念像を手がけています。

■野外彫刻の増加

札幌に現在ある彫刻のなかで、円山動物園前にある山内壮夫の≪よいこつよいこ≫(1952年)や、大通公園にある峯孝の≪牧童≫(1956年)が肖像彫刻以外では最も早い時期のものです。そうした作品の設置は、1950年代末から徐々に増えはじめ、1970年代に入って本格化します。こうした野外彫刻の制作依頼が増えはじめたことも、本田や坂をはじめとする札幌で活動する彫刻家の大きな支えとなっています。この時期の彫刻設置の増加は全国的な傾向でした。50年代末から各地で野外彫刻展が開かれるようになり、なかでも60年代に始まった山口県宇部市の常盤公園と神戸須磨離宮公園での彫刻コンクールには、新しい試みによるスケールの大きな作品が次々と発表され、彫刻家の登竜門としての役割も果たしました。また、1969年には国内外の著名な彫刻家の作品を屋外展示する彫刻の森美術館が箱根にオープンし、多くの観覧者を集めるようになります。こうした屋外での彫刻展示の可能性の拡大と人々の関心の高まりは、高度経済成長の波に乗って公共的な彫刻設置へとつながり、日本各地の自治体で「彫刻のある街づくり」も進められることになります。特に1869年に開拓がはじまった北海道では、多くの市町村が1970年頃から順次開基百年を迎えることになり、その記念として彫刻設置が盛んに行われることになるのです。また、企業や団体の周年事業として彫刻の寄贈が相次ぎ、それを後押ししています。

札幌でも1967年に北海道百年を記念し、北海道開拓功労者顕彰像として大通公園と円山公園に黒田清隆、ホーレス・ケプロン、岩村通俊の像が設置されました。この3点は計画途中で亡くなった加藤顕清の原案をもとに雨宮治郎、野々村一男、佐藤忠良がそれぞれの制作にあたったものです。戦時中に供出によって消えた偉人たちの姿が新たな作品となって再び札幌の空の下に戻ったのです。また、1972年の冬季オリンピックを境に札幌の街は大きく様変わりしていきますが、真駒内公園や五輪大橋・小橋への作品設置(1971年)は、札幌の彫刻にとって大きな出来事でした。本郷新、山内壮夫、佐藤忠良、本田明二という札幌二中出身で新制作協会の彫刻家たちによって、札幌冬季オリンピック記念という統一したテーマのもと、躍動感や札幌の風土を表わす作品が橋の欄干にそれぞれ一対制作されました。すぐ近くの真駒内公園の本郷新による≪雪華の像≫を含め、この一帯の造成において彫刻が重要な要素として計画的に取り入れられたことは特筆すべきことでしょう。

■抽象彫刻

人間像中心の作品設置が続いたなかで、抽象的な作品としては、形体の単純化を進めた山内壮夫の作品のほか、創成川畔にある関敏の「札幌建設の地」碑(1967年)や札幌市役所前庭にある石川浩の≪壤・蜀≫(1971年)が早い時期のものとして見ることができます。また、1971年以降、札幌出身の伊藤隆道によるステンレス作品も多く設置されています(5)。北海道立近代美術館前庭の≪回転螺旋・一月≫(1978年)をはじめ優雅な曲線をゆっくりと回転させる作品は、固い金属であることを忘れさせるほど伸びやかな動きを見せています。百合が原公園の≪ひらく・花≫(1985年)から手がける動かない彫刻も、見る角度によって驚くほどさまざまにその表情を変えます。札幌で活動を続ける國松明日香も作品設置数が多い作家のひとりです。第4回本郷新賞を受賞した厚別運動公園の≪捷≫(1988年)など、カーブを描いて切り取られた鋼板を構成しリズミカルで躍動感あふれる作品を生み出しています。

石を素材とした彫刻は、かつては札幌に数えるほどしかありませんでしたが、現在、街を見回してみると黒御影石を用いた流政之の作品や白大理石による安田侃の作品をはじめ、多くあることに気づきます。丸山隆も石の作品を中心に、短い期間にいくつもの作品を残しています。彼は、1985年に北海道教育大学札幌分校(現・北海道教育大学札幌校)の彫刻の教員として藤川叢三の後を引き継いで赴任。それまで札幌では山本一也を除いてほとんど行われていなかった石彫を指導するとともに、新鮮な抽象彫刻の息吹と、量感を重視した人体表現を学生たちにもたらしました。彼の着任以後、若手彫刻家の傾向が大きく変わったのも確かなことです。

■公共の空間における彫刻のあり方

札幌では1980年末から90年代前半にかけて、ひとつのブームのように彫刻がまとまったかたちで市内各所に置かれています。いわゆるバブル時代であったことに加え、彫刻が身近にあることのすばらしさを市民や行政が十分に理解しはじめた反映をそこに見ることができるのではないでしょうか。定山渓のカッパ彫刻をはじめ、市内の小中学校、札幌駅通りやすすきの通り、市内に点在する公園、新興住宅地の広場などに相次いで彫刻が設置されていきました。札幌を中心とした地元の若手・中堅の彫刻家にそれらの制作の機会が与えられたのもこのころからの特徴です。

話は前後しますが、1980年代中頃から全国的に公共空間における彫刻のあり方が問い直されるようになり、街なかに乱立した彫刻への反省から「彫刻公害」という言葉さえささやかれはじめました。そこには設置にいたるプロセス、裸体像の公共展示、設置後のメンテナンスなどに対する問題もありますが、何よりも作品の質や置かれる場との関係がクローズアップされてくるのです。それにより、その場に合わせて新たに作品を制作するという方法が広まっていきました。最近用いられるようになった「サイト・スペシフィック」という美術用語は、その場所でしか成立しない作品という意味であり、単に設置される場所の周囲の状況だけではなく、時にはその地の風土や歴史的背景までも作品にかかわりをもたせようとするなど、場との関係性をさらに進めた考えです。札幌芸術の森野外美術館にある環境造形Qの≪北斗まんだら≫(1986年)やダニ・カラヴァンの≪隠された庭への道≫(1992-99年)はその代表的なものと言えるでしょう。そうした傾向は市内に設置された作品にも次第にみられるようになりますが、なかでも1997年に完成した石山緑地は、まさに場との関わりを強く持つ作品です。5人の彫刻家によるグループ「CINQ」(國松明日香、永野光一、松隈康夫、丸山隆、山谷圭司)によって、札幌軟石の採掘場であった過去を踏まえながら、いくつもの造形物を配置した公園として整備されています。

公園造成に彫刻家が深く関わったものとしては、イサム・ノグチが最晩年にマスタープランを手がけたモエレ沼公園(2005年グランドオープン)を忘れるわけにはいきません。彼が長年抱き続けた「大地を彫刻する」夢を実現し、公園全体をひとつの彫刻としてとらえたスケールの大きさは世界に類をみないものです。また、イサム・ノグチがもうひとつ札幌に残した大通公園の≪ブラック・スライド・マントラ≫(1992年設置、翌年移設)のまわりには、子どもたちの歓声が絶えません。これほど人々に親しまれている彫刻は世界にもそう多くはないはずです。

一方、90年代になって世界の先進的な例が日本で盛んに紹介されるとともに、パブリックアートという言葉が一般的に使われはじめました。ファーレ立川(1994年)や新宿アイランド(1995年)などに代表されるように、地域開発にアートを積極的に取り入れたプロジェクトが各地で試みられ話題になりました。札幌でも、最近では札幌ドーム周辺のアートグローヴ(2001年)や、JRタワー内外のパブリックアート(2003年)など、大きな施設建設にあわせて彫刻をはじめとした作品を計画的に取り込む例が目立ってきています。

札幌の彫刻を考える時、美術館の果たした役割も少なくありません。1977年の北海道立近代美術館に続いて、1981年に彫刻専門の美術館として札幌彫刻美術館が開館し、国内外の優れた彫刻を鑑賞できる機会を提供することで市民の彫刻への関心を高めました。1986年にオープンした札幌芸術の森野外美術館は、その場に合わせて新規制作された作品群により、野外における彫刻のあり方の好例を示しました。1990年には札幌芸術の森美術館がオープンし、国内外の近現代彫刻の流れをつづる作品を収集するとともに、彫刻の展覧会にも力を入れています。

早くから優れた彫刻家を輩出し、街のなかの多くの作品のほかにも、彫刻を楽しむことができる公園や美術館が充実した札幌。近年、ボランティアによる彫刻清掃や、創成川アートワークなどの新しい動きも見られます。こうした恵まれた環境のなかで育まれた人々の手によって、野外彫刻がいつまでもよりよい状態で保たれていくとともに、さらにさまざまな魅力的な作品が札幌の街を彩っていくことを願っています。

【参考文献】

  • 原子修 『彫刻詩集 札幌の彫刻をうたう』(1981年、みやま書房)
  • 『さっぽろ文庫21 札幌の彫刻』(1982年、札幌市・北海道新聞社)
  • 原子修 『北海道野外彫刻ガイド』(1985年、北海道新聞社)
  • 匠秀夫 「野外美術館の開設にあたって」(札幌芸術の森野外美術館図録、1986年、財団法人札幌芸術の森)
  • 竹田直樹 『パブリックアート入門』(1993年、公人の友社)
  • 山岡義典 『パブリックアートは幸せか』(1994年、公人の友社)
  • 柳生不二雄 「戦後の抽象彫刻と野外彫刻展についての断想-1951年代のことごと-」(『昆野恆展』図録、1995年 昆野恆展実行委員会)
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1943年まで大通西3丁目に設置されていた永山武四郎像(1935年撮影)
写真提供:札幌市写真ライブラリー

たじま せきろう 田嶼碩朗(1878-1946)
福井県生まれ。1903年に東京美術学校(現・東京芸大)彫塑科卒業。1939年に札幌彫塑研究所を開設。戦前に道内や樺太にて多くの肖像彫刻を手がけるが、戦時中の金属回収により現存する作品は少ない。大通西5丁目の「聖恩鑽仰塔」(1938年)も田嶼の作。

かとう けんせい 加藤顕清(1894-1966)
岐阜県生まれ。生後すぐに北海道にわたり約20年間を旭川で過ごす。中原悌二郎の影響で彫刻を志し、東京美術学校(現・東京芸大)彫刻科にて高村光雲、白井雨山に師事。1921年帝展初入選以来、官展で活躍。1962年に北海道出身者では初めて日本芸術院会員となる。アカデミックな造形による情感豊かな人体像を手がけた。旭川に多くの彫刻が設置されている。

(1)中島公園にある朝倉文夫の≪木下成太郎像≫は1932年の設置で、戦前のまま残された貴重な作品のひとつ。
(2)札幌独立教会に残されていた石膏原型をもとに復元したとされている。

ほんごう しん 本郷新(1905-1980)
札幌市生まれ。札幌第二中学(現・札幌西高)、北海中学(現・北海高)で学ぶ。東京高等工芸学校彫刻科(現・千葉大学工学部)卒業後、高村光太郎に師事。国画会を経て、1939年に、同志7名と新制作派協会彫刻部を創立。全国各地にモニュメントを積極的に設置した。1942年に出版lした『彫刻の美』は彫刻に関する名著として知られる。没後、札幌の宮の森に彼のアトリエをもとにした札幌彫刻美術館が開館し、作品が常設展示されている。

やまのうち たけお 山内壮夫(1907-1975)
岩見沢市生まれ。札幌第二中学で学ぶ。東京高等工芸学校彫刻科(現・千葉大学工学部)卒業後、国画会を経て、1939年に新制作派協会彫刻部の創立に参加。戦前からたびたび札幌を訪れたほか、戦後7年間札幌に疎開し、全道展創立にも参加している。

さとう ちゅうりょう 佐藤忠良(1912-2011)
宮城県生まれ。幼少で夕張に移り、札幌第二中学時代を札幌で過ごす。東京美術学校で学び、1939年に新制作派協会彫刻部の創立に参加。1981年には、パリのロダン美術館で個展を開催。日本人の顔、こどもの像、女性像などを多く制作している。2008年、札幌芸術の森に「佐藤忠良記念子どもアトリエ」が開館した。

(3)後に千葉の谷津遊園に移設
(4)1951年、55年、58~62年、68年に出品の記録がある。

ほんだ めいじ 本田明二(1919-1989)
月形町生まれ。幼少から札幌で育ち、札幌第二中学卒業後上京し木彫家澤田政廣に内弟子として学ぶ。1948年にシベリア抑留から復員後、札幌に定住して彫刻制作を続けた。全道展、新制作協会で活躍し、戦後北海道における彫刻界のリーダー的役割を果たしたひとりである。道内各地に多くの彫刻を設置している。

さか たんどう 坂坦道(1920-1998)
石川県生まれ。北海中学から東京美術学校に進み、朝倉文夫、北村西望、加藤顕清に師事。戦後札幌に定住し、戦後道展の再建に努めた。日展会員。道内を中心に50点以上の作品を設置した。

みね たかし 峯孝(1913-2003)
京都市生まれ。京都市立美術工芸学校彫刻科卒業後、清水多嘉示に師事。国画会、直土会を経て、自由美術協会会員となる。1953年の自由美術協会会員小谷博貞、新田実とのグループ展以後、東京在住ながら札幌で幾度も個展等を開いている。1956年の≪牧童≫は大通公園に戦後最初に設置された作品であり、以後、真駒内中央公園の≪エドウィン・ダン像≫、北海道立産業共進会場の名牛像(現在は移設)、大通公園の≪奉仕の道≫など、酪農関連の作品を札幌に多く残した。

いしかわ ひろし 石川浩(1931-)
東京都生まれ。新制作会員。東京在住。札幌市内に、市役所前庭≪壤・蜀≫、北海道開拓の村入口≪門葉≫、サッポロファクトリー前≪しののめ≫(現在は撤去)、定山渓ビューホテル前庭≪風のSYMPHONY≫などの石彫を制作した。

いとう たかみち 伊藤隆道(1931-)
札幌市生まれ。東京芸術大学工芸科金工卒業。当初ディスプレイデザインを手がけていたが、1968年から多くの彫刻展に出品し、第1回現代国際彫刻展S氏賞(1969年)、第4回神戸須磨離宮公園現代彫刻展大賞(1974年)第2回彫刻の森美術館大賞展大賞(1975年)などを受賞。ステンレスパイプを用いた作品を数多く手がけ、日本における動く彫刻の第一人者として知られる。東京のほか北海道北広島市大曲にアトリエを構える。

くにまつ あすか 國松明日香(1947-)
小樽市生まれ。札幌在住。父は画家の國松登。東京芸術大学で舟越保武、千野茂らに彫刻を学ぶ。卒業後、個展、グループ展などでさまざまな先鋭的な作品を発表したが、1980年頃から街並みを思わせる一種の風景彫刻を手がける。近年は、専ら鉄を用いた彫刻を制作。札幌をはじめ新千歳空港や洞爺湖畔など道内各地に50点を超える作品を設置。また、CINQを結成し石山緑地などのパブリックアートを手がけた。

やすだ かん 安田侃(1945-)
美唄市生まれ。1970年に留学し、ローマでペリクレ・ファッツィーニに師事。73年から、白大理石の産地として知られる北イタリアのピ工トラサンタで制作を続ける。札幌市内には、札幌芸術の森野外美術館の≪間≫、札幌コンサートホール内外の≪相響≫、知事公館庭の≪意心帰≫、ステラプレイスの≪妙夢≫などの白大理石の作品のほか、北海道立近代美術館前や札幌ドームにブロンズ作品がある。アルテピアッツァ美唄や洞爺湖畔に多くの作品を展示している。

(5)1971年に札幌地下街にした≪札幌の四季・四つの風≫、1993年に札幌ファクトリー前に設置した≪HAPPY MACHlNE AIR≫は後に撤去されている。

ながれ まさゆき 流政之(1922-)
長崎市生まれ。四国の庵治を拠点に制作を続ける。札幌には、ホテルニューオータニ前の≪なんもさストーブ≫、狸小路の≪ポンサ≫、住友商事フカミヤ大通ビル≪八丁ダルマ≫、アーバンサイトミュンヘン大橋≪キタサキモト≫、JRタワー≪ビリカ≫≪映画神像 北海道≫などがある。道内にも奥尻島や東大沼流山温泉をはじめ設置作品が多い。彼を慕う人々によって「札幌流塾」が結成されるなど、札幌とのゆかりも深い。

やまもと かずや 山本一也(1931-1997)
札幌市生まれ。1953年頃から本田明二に彫刻を学ぶ。石材店を営む彼は、札幌ではほとんど制作されていなかった石彫に早い時期から取り組み、全道展などに発表した。97年より晃作に改名。札幌市内にはつきさっぷ中央公園にあるレリーフ≪和處≫、札幌芸術の森野外美術館≪鳥になった日≫が設置されている。市民会館前にある山内壮夫の≪希望≫、大通公園にある藤川叢三の≪有島武郎文学碑≫の台座も手がけた。

まるやま たかし 丸山隆(1954-2002)
長野県穂高町生まれ。東京芸術大学美術研究科(大学院彫刻専攻)修了。1985年から北海道教育大学札幌分校(現・札幌校)で彫刻の指導にあたる。道展会員として活動する一方、地下鉄真駒内駅前の≪ひとやすみする輪廻≫や中央図書館周辺などに多くの作品を設置。また、CINQを組織し石山緑地などのパブリックアートを手がけたり、HIGH TIDEなどのグループ活動を積極的に行う。来札当時は石彫を手がけていたが、その後金属や木、布などを用いた作品も展開した。ものの内外に対する意識や不可視のエネルギーを具現化する造形を特徴とする。

ふじかわ そうぞう 藤川叢三(1922-1998)
旭川市生まれ。本名、基。東京美術学校で建畠大夢、朝倉文夫、北村西望に学ぶ。1951年より北海道教育大学札幌分校で彫刻の指導にあたる。道展や日展に作品を発表。1962年から2年間、イタリアに留学し、マリノ・マリー二に師事。屋外作品では、留学直前に制作した大通公園の≪有島武郎文学碑≫(1962年)がある。

イサム・ノグチ(1904-1988)
ロサンゼルス生まれ。幼少期を日本で過ごすが、1918年に単身渡米し彫刻家を志す。彫刻、舞台美術、庭園、陶芸、デザインなど幅広い分野で活躍。ニューヨークのほか香川県牟礼町にアトリエを構えた。1988年3月に札幌を訪れ、モエレ沼公園の現地を視察。同年11月マスタープランを完成されるが、12月に急逝した。

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